皆さんこんにちは♪
うちの会社は、先週からフル出勤になってしまったので、なかなかブログにかける時間をとれないでいます・・・(´;ω;`)
っていうか、まだ緊急事態宣言中やないか~い( `ー´)ノ
さて( ´ー`)y-~~
私は少年の心を忘れないようにしています(*´▽`*)
というか、心は少年です・・・。見た目はオッサンだけど・・・。
若い頃っていきがって格好つけていたけれど、歳をとるにつれて恥ずかしくなってきてしまって。
バカになっている方が、バカに見られていた方が、何かと楽でもあります。
それに、いつまでも悪戯心は忘れたくないじゃないですか!?
苦しい時こそ、おちゃめな心を忘れないように心がけています。
そうすることで、心にゆとりも持てますしね。
目指すは、自由な心を忘れない永遠の少年(*´▽`*)
今回はそんな「自由」と「無謀」の違いについて、手短に解説します。
結論
「自由」には周囲への思いやりが含まれるが、「無謀」にはそれがない。
叱らない教育の弊害!?
最近は、よく「叱らない教育」というものを耳にします。
褒めて育てるというやつですね。
別にそれ自体には反対しません。
私は親や先生にシバかれながら育ちました。昔ってそうでしたよね?
それが道を踏み外すことを防ぐ大きなブレーキになっていたのも事実です。
子供は元来、無謀なものです。
バカやって叱られながら「許される限度」や「境界線」というものを学んでいきます。
でも、それを叱られないとどうでしょう。
その境界線を知らないまま大人になってしまったら、どうなるのでしょう。
はい、「無謀な大人」になります。
周囲の迷惑になっていても「何やっても私の自由でしょ!」という人達です。
「自由」という言葉にはとっても魅力的な響きがあり、勘違いしてしまいがちです。
そういう人達に「自由」と「無謀」の違いは理解できていません。
社会においては、人と人が関わり合って生きています。
「自由」と言っても、何をやっても許されるものではありません。
その社会の関わりにおいて、他人に配慮し思いやりをもったものでなくてはならないのです。
その配慮がなくなれば、それはもはや「無謀」です。
電車で近くに人がいるのに、じゃじゃ漏れ状態で音楽を聴くのは「自由」ではありません。
人里離れた山奥で一人で生活していたとしても、「自由」だからと山に火を放つのは許されませんよね?
「自由」をはき違えてはいけません。
この思いやりを持たない人達は、本当の「自由」を知りません。
残念ですね。
私は子育ての専門家ではないので「褒めて育てる」ことは否定しませんが、叱らない教育というのは如何なものかと思います。
逆に叱る必要のない子供なんて怖いです。
子供のうちにバカやらないで、いつやるの??
子供は子供らしくバカやって叱られて大きくなり、痛みを知る、分別をわきまえた本当の「自由」を知る大人になれるのではないでしょうか。
そんな生き様は如何ですか?
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