皆さんこんにちは♪
ついにパラリンピックが開会しましたね!
個人的感想としては、オリンピックよりもテーマが一貫していて芸術に疎い私でも分かりやすかったです。
オリンピックも含め、ビートたけしさんが監修していれば、もっと興味深いものになったのではと思うのは私だけでしょうか・・・。
さて( ´ー`)y-~~
このパラリンピックを機に、障害への関心が深まることが期待されています。
今回は、障害について私見を述べたいと思います。
そもそも障害者とは、障害者基本法という法律で定められており、その内容は以下です。
「身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。」
多分、皆さんの障害者への認識とおおむね一致するのではないでしょうか。
では、皆さんは身近な人に障害を持った方はいますか?
そう問われた時、「祖母が足を悪くしているけど、どこからが障がい者になるんだろう」といった疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。
「我が子が、ひょっとして他の子よりも知性が劣っているのではないか・・・。でも障害児とは認定されたくない」と考えている親も多いのではないでしょうか?
そう考えると、とても身近なことなのだとご理解いただけると思います。
そう、障害者というのは、何も健常者にとって特別な存在ではなく、その境界もはっきりと示せるものではありません。
私の叔父は、盲目です。
生まれつき弱視だったそうで、私が物心つく頃には、ほぼ見えなくなっていました。
通院するのに、父がよく車を出していましたが、私も何度か同行して誘導をしました。
とても機械好きで、盲目なのに器用に当時非常に高価だったビデオカメラや音響装置などの最新機器を扱っていたのが非常に印象に残っています。
そういうこともあり、私は幼いころから「目が見えないってどういう世界なんだろう」などと障害に対して他の人よりも考えていたと思います。
その時に思ったのが、「どっからが障害者で、どこまでが健常者なんだ?」ということです。
例えば、目を怪我して視力を失ったら障害者、では目が悪くなっていって視力が落ちても障害者?
私は柔道をやっていて、たまに怪我をしたのですが、その怪我の後遺症で社会生活に支障がでれば障害者?
少なくとも、それなりの怪我をすれば、完全には元通りになりません。
その後遺症の程度により障害者となってしまうのであれば、まさに紙一重とも言えます。
そう、誰しもが今日にも障害者になる可能性があるのです。
他方で、先天的に障害を抱えている人も多いです。
でも、この先天的な障害も、目に見えるものであれば分かりやすいですが、例えば脳内の血管の奇形などはどうなんでしょう。
それ自体で日常生活に支障がなければ障害とは認定されませんが、その血管の奇形が破裂して、くも膜下出血を起こす危険が非常に高かったとしたら?
色々と疑問は尽きません。
実際に、私は前職で先天性の脳血管奇形によるくも膜下出血により後輩を亡くしています。
脳血管の奇形なんて、普通は倒れるまで分かりません。
何が言いたいかというと、誰しも表出していない何らかの先天性の障害を持っている可能性があるということです。
知的障害にしても、軽度のものは健常者とそう変わりません。
病院に行って病名を確定するかしないかの違いにも思えるのです。
ある人が「健常者なんていない。程度の差こそあれ誰しも何らかの障害を抱えている。」と言っていたそうですが、私もまさにその通りだと思います。
だから、障害者というのは健常者との境がはっきりとした特別な存在ではないのです。
ただ、日常の活動に不自由がある人に対しては、手助けをすべきです。
それは、特別に障害者を助けるというのではなく、杖をついたお年寄りの手助けをするのと同じように・・・です。
そこに区別はありません。
障害者であろうが、健常者であろうが、お年寄りであろうが、妊婦さんであろうが、酔っ払いであろうが、体調不良者であろうが、怪我人であろうが、「困っていれば助ける」のは同じことなんです。
ちなみに、電車の優先席は障害者や妊婦さんなどに限らず、立っていることで苦痛を感じる体調不良でも利用できます。
体調不良者などは外見上分かりにくいので、お年寄りが前に立っていたりすると白い目で見られますが・・・。
それが私の障害に対する認識です。
皆さんはどう考えますか?
人は失ってからその価値を知るとはよく言われますが、自分の何らかの機能を失う前に考えておくことは大切だと思います。
このパラリンピックは、まさにそういう好機なのではないでしょうか。
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