皆さんごきげんよう♪
梅雨入り・・・しないですね~。
何でも水不足で水門が絞られた結果、華厳の滝がチョロチョロしか落水していないそうです(;’∀’)
華厳の滝って行ったことありますけど、水門で調整されてたんかいな( ゚Д゚)
私は雨は嫌だけど、雨を欲して待っている人もいて生活が懸かっている人もいる訳ですね。
つくづく、物事は一方的に見ていてはいけないなぁと感じる今日この頃です。
さて( ´ー`)y-~~
先日、仏教の教えに興味があると書きましたが、同時に仏教にも矛盾があって信徒になる気はないとも書きました。
今日はその矛盾について書きたいと思います。
信徒の方は不愉快になるかもしれませんので、はじめに謝罪しておきます。ディスる気はありませんのでご容赦ください<(_ _)>
まず、伝統宗教と新宗教(新興宗教)の違いですが、はっきりとはしていません。
古くから存在するものを伝統宗教、明治維新以降に誕生、あるいは派生した宗教を新宗教と呼ぶようです。
仏教の伝統宗教には、13宗56派あるとされています。
多すぎワロタ
その宗派ごとに、微妙に教えが異なります。
極端な例を挙げるとすれば、死後の世界ですかね。
輪廻転生するとする宗派もあれば、そもそも釈迦尊はそんなことを言っていないとする宗派もあります。
どっちやねん(;^_^A
そして宗派によって微妙に考え方も違って、唱えるお経も違って、仏像も違います。
仏教だけでもそうですからね。
そもそもですよ。
死後の世界は、誰が見たのでしょうか。
よく宗教との対比で科学が出されますね。
科学で解明されていないことは、何も信じない!という人も多いかと思います。
私は科学が全てだとは思いませんが、少なくとも誰も見たことがない、科学でも解き明かされていないことを、さも見て知っているかのように断言するのは大いに違和感を感じざるを得ません。
そういうことに触れた時点で萎えますね((+_+))
仏教も例外ではありません。
大体の宗教では、絶対的な神が存在して、この世は神が創造したのだと説いています。
見たんかよ!
じゃあ宗教ごとに神がいて、どんだけ多くの世界を作ってるんだよ!
という矛盾が生じる訳です。
なので、他の宗教の神は認めず、自分の信じる神が本当なのだと、他の宗教の神は嘘なのだと信じざるを得なくなります。
だから宗教間の争いが起きる訳ですね。
それもこれも人間の作り出した虚像です。
人間の作り出した虚像を崇拝して、何の意味があるのか大いに疑問に思う訳です。私は。
死後の世界も然り。
誰も死後の世界から真実を伝えた人はいません。
臨死体験で死後の世界を見たと主張する人はいますが、それが死後の世界だとなぜ確信を持って言えるのでしょうか。
なぜ人によって死後の世界が違うのでしょうか。
なぜお花畑ばかりで、いわゆる地獄に行って戻った人はいないのでしょうか。
私は死後の世界がないとは言いません。
あると仮定して、妄想するのも楽しいことです。
所詮は人間の戯言です。
科学でも死後の世界がないとは証明できません。
である以上、あっても不思議ではないというのが私の現在の意見です。
でも、さも全てを知っているかの如く、死後の世界はこうだ!と断言しているのを見ると萎えますね。
死後の世界も含めて、自分で探求して答えを導き出すのは大いに結構だと思いますし、私も探求したいと思っています。
で、たどり着いた答えは、自分だけの死後かもしれないので、他人に語り説くのではなく、他人に惑わされるのではなく、自分だけの秘め事にすればよろしいかと。
私なりの仮設(妄想)はありますが、まだまだ形にもなっていません。
科学において、この世界(宇宙)の始まりはビックバンだとか、その前にインフレーションがあったとか、徐々にではありますが解き明かされようとしています。
少なくとも、宇宙の始まり以前のことについては、全く分かっていません。
それについて語る宗教が見当たらないのも興味深いですね。
存在すら知らない世界については語れない、極めて人間的な反応だと言えます。
では、死後の世界や魂はビッグバン以前から存在したのか、いつできたのか、いるかもしれない地球外生命体は、やはりビッグバン以降に誕生したのか、それ以前には存在しなかったのか。
この宇宙に生命が誕生したとき、魂はどこから来たのか、どうやって増えたのか、誰が誰の意思で魂がその生命体に宿ると決めたのか。
仏教では長くても短くても一生には意味がある。短い人も短いなりに役目があり、それを終えたから旅立つのだと。
だとするならば、生まれることなく母体と共に戦争で人知れず亡くなり、だれも悲しむ人もいなかったとしたら、それに何の意味があるのでしょう。
などと考えてしまいます。
答えなどありません。
所詮は宇宙の中のちっぽけな地球という星の、ちっぽけな一つの限られた命です。
宇宙の歴史を考えると、ほんの一瞬の寿命しかありません。
そんな人間が知り得ることなんて、ちっぽけなものなのでしょう。
でも我々人間は、自我があり、宇宙の始まりやそれ以前のことについて、考えを馳せ科学的に解明しようとすることはできます。
ちっぽけな人類のちっぽけな人生であっても、その寿命を全うして少なくともその人にとって意義あるものにするかどうかは、その人次第です。
せっかく得た命、自分という存在を、どう生きるのか、どう死ぬのか、生きている内に考えねばなりませんね。
そんなことをぼんやりと考えて生きている変人です(;^_^A
答えなんてないのでしょう。ないものは見つからないでしょう。
でも、考えることに意味があって、もがきながら生きることに意味があると思います。
壮大な視点に立てば、目の前の気に入らないこと、楽しいこと、苦しいこと、辛いこと、そのすべてがちっぽけなことです。
ちっぽけな人間がちっぽけなことで悩み苦しみ、喜び悲しみ、ちっぽけな人生を終える。
それもまた面白い。
『おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり』
ですな。
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