死を意識して生きると・・・

皆さんごきげんよう♪

いや~ご無沙汰してしまいました(;’∀’)

何かと忙しく、風邪なんぞもひいてしまいまして・・・

熱とかは出なかったんですけど、喉が痛くて咳がひどかったです。

特に寝る時に横になると咳が止まらなくなって、呼吸困難になって寝られなくなってきたのでさすがに病院に行きました。

結局、コロナでもインフルでもなく、気管支炎と診断されました。

風邪のウィルスが気管支まで炎症させていたため、横になって気管が狭くなるとそこを通る空気の刺激だけで咳を誘発しているということでした。

お薬を貰ってすぐに良くなりましたが、咳で寝られないのってしんどいですよね((+_+))

呼吸ができないって、命の危険を感じてしまいます。

さて( ´ー`)y-~~

命の危険と言えば、皆さんは『死』というものを感じながら生きていますか?

私は結構意識して生きてるんですよ。

死というものを客観的に意識しながら生きるのって、多分人間だけですよね。

動物なんかは弱ってきて死の間際になると死を前提とした行動をとるなんて言われますが、普段から意識してはいないと思うんです。

死について語り出すとスピリチュアルや宗教の世界に突入してしまうので今回は割愛します。

私たちには、当たり前のように寝て起きて・・・というように、明日が来ます。

でもこれって当たり前ではないんですよね。

以前、「日常が日常たるありがたさ」という記事でお話しましたが、日常が日常であることは、実は凄いことなんです。

病気やケガなど、何かあれば日常でなくなってしまいますから。

突然ですが、皆さんは明日を無事に迎えるために、いくら払えますか?

逆に、いくらもらったら明日が来なくても納得できますか?

究極の質問ですね(;^_^A

明日がないなら、1兆円もらっても使う暇がないから意味がありませんよね。

では、1か月ではどうでしょう。

1か月あればそれなりに使うことはできそうです。

でも1か月後には確実な死が待っています。

その場合、多分その1か月を懸命に生きるのではないですか?

そしてそのお金は、自分のために使いますか?ある程度は寄付しますか?

そういった部分に人間性がでるのではないでしょうか?

まぁそれはともかく、限りある命だと分かった瞬間、毎日1分1秒が大切に思えて愛おしく切なくなるのではないかと思います。

願わくば、そういう生き方を普段からできれば毎日が充実して素晴らしいことだと思いませんか?

死を意識して生きるというのは、そういうことなんだと思っています。

私は食いしん坊なので、一食たりとも無駄にするもんか!って思っています(^^♪

お金や体重にも配慮しますけど、なるだけ食べたいものを食べたいだけ食べるようにしています。

それが美味しくなかったら割とマジに凹みます(´;ω;`)

本当に死はいつやってくるか分かりません。

事故で一瞬で亡くなることもあるでしょうし、急病で倒れてそのまま・・・ということもあるでしょう。

それまでどれだけ一生懸命生きていたとしても、やり残したことはあって悔いは残るかもしれません。

死んでしまえば悔いなんて一切関係なくなるのかもしれません。

でも、生きている時にそうやって死を意識しながら懸命に生きていれば、死後の世界ではなく生きている時間が充実します。

死ねば物体としての肉体が残ることに変わりはないかもしれません。

でもどうせ生きるなら、楽しく充実させたいじゃないですか。

輪廻転生があって来世で報われるとか、私には分かりませんしどうでもいいです。

今、この「サトシ」という人として生きている時間を大切にして、より良いものにしたいなと思っています。

歴史に名を残そうなんて思いませんし、他人の記憶に残ろうとも思いません。

「自分で満足して生を全うしたい」という究極の自己満足かもしれませんね。

でも自己中とは違います。

承認欲求ではないですけど、他人と上手く関わり、他人のために施しをして、他人から好かれるということも含めて、満足したいのです。

どうせ生きるならば、満足できる人生を歩みたいと思いませんか?

明日は来ないかもしれません。

だからこそ、明日が来ることに感謝して、その日1分1秒を懸命に生きましょう。

明日が来なくなる日まで。

そんな生き様はいかがですか?

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